●ご連絡
4月29日〜30日と、5月3日〜7日につきましては更新をお休みさせて頂きます。よろしくお願いします。
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フルート奏者の山形由美氏が自分のフルート2本を東京駅のコインロッカーに入れておいたら、無くなってしまい、川崎駅のコインロッカーから出てきたという事件。
フルートは本当に高い。14金とプラチナ製2本で1200万円相当だとのこと。輪切りにすれば指輪にもなってしまう。管楽器奏者の端くれとして、本当に同情するのだが、山形由美氏ほどのフルート奏者もコインロッカーを使うのか、とちょっと意外な気分。僕も昔はよくサックスをコインロッカーに入れていたけれど…。金額はともかく、自分の楽器が無くなるのは激痛ものだから、出てきて本当に良かった。しかし、誰がこんなことをしたのだろう??
クライバーがウィーンフィルを振った歴史的名盤。僕はこの運命を初めて聴いたとき、のけぞってしまったぐらい衝撃を受けたのだった。こんな運命聴いたことがなかった。フルトヴェングラーの重厚な運命とか、カラヤンの素っ気ないぐらい優美な運命は知っていたけれど、クライバーの運命は優美なのだが、まるで19世紀の重厚な欧州の兵士が観閲式を行っているような、規律正しい優美さ、優雅さ、品格の高さ、を感じるのである(このたとえ自体、偏見に満ちたものかもしれないが許して欲しい)。特に第4楽章で金管がファンファーレを鳴らす部分の壮麗さ、コントラバスが一糸乱れぬ速さで旋律を奏でるあたり、脱帽である。これをきかずんば、何をもって運命の規範とするや?
どうでもいいんだが、最近モーツァルトにもはまっていて、特に朝の通勤の、無機質で倦怠な時間には、モーツァルトでも聴いて心を休めるぐらいしか、方法はないのである。別に今年がモーツァルトイヤーだからというわけではない。そういう事実に気づいただけだ。確かに、モーツァルトには何かがあるのかもしれない。交響曲第1番でさえも、心を落ち着かせてくれるのだから。
米軍グアム移転費用の日本負担割合が決まったそうで、59%だとのこと。日本円で7000億円。うーん、桁が大きすぎてよくわからない。改革はどこへ行ってしまったのだろう。7000億円で防衛庁のPCを買った方が良いんじゃないか、と思うのだが…。今は米国同盟路線で行くしかないけれど、あまりに米国追従だと、これからも足下をみられまっせ、ってかんじ。
ON TV MOVIEなるサイトを見つけた。これ、結構おもしろい。自分の見た映画、見たい映画、持っている映画などを登録して公開できる。生年月日を入れると、各人生のステージごとに公開された映画がわかるのだが、ああー、あったよね、こんな映画、みたいな、懐かしさを感じるのであった。
アマゾンのアフィリエイトにも対応していて、おもしろいレビューを書いたらお小遣い稼ぎになるかも?
いわゆるこれも、Web2.0ってやつなのかな?
藤田嗣治展に赴く。新聞販売店の招待券が当たったのである。出かけてみると長蛇の列で入場まで40〜50分もかかる有り様。たしかにテレビでもかなり取り上げれていたし、天気の良い土曜日とあれば致し方ない。
藤田嗣治の東京美術学校の卒業制作である自画像から、晩年フランスに帰化した後の作品までが時代順に網羅的に展示されていた。残念ながら僕が昔感銘を受けた京都国立近代美術館所蔵の作品や、国立西洋美術館所蔵作品は展示されていなかった。
しかし普段はみることのできないであるう戦争画の大作が4枚展示されて、戦闘の阿鼻叫喚を伝えるにこれ以上のものはないだろう、という迫力と感興を感じる。いずれもオレンジ色を基調としていて、血や炎を連想させる。これがあの乳白色の美人がを描いた同じ画家のてによるものとは、そうと言われなければ分からないだろう。戦争画は戦時中に軍部によってプロパガンダとして使用されたとして米国に一旦接収されたのだが、現在は無期限貸与という形で国立近代美術館が管理していると言うことだそうだ。
それにしても、藤田嗣治の画風は時代を追うに従ってその作風を変えていくのがよくわかる。パリ留学直後モディリアーニばりの絵を描いているのだが、そこから脱却して、いわゆる「乳白色」の世界を徐々に洗練させていく。中には日本画の影響を強く受けた作品も見受けられる(背景に金箔を施していて、まるで屏風絵の様に見えるのだ)。パリを離れ日本へ戻ると、また画風は代わり色彩が豊かになる。戦争画の時代は特筆すべきものであることは先に書いたとおり。戦後は、再び「乳白色」が戻ってくるのだが、よりソフィスティケイトされていく。もちろん一つの展覧会を一望しただけで藤田嗣治の全貌を見ることなどできるわけはないのだが、少なくとも藤田嗣治が気づいた世界が「美しいもの」であることだけは確かであると思うのであった。
それにしても、久々の美術館で、本当に刺激を受けた。絵画の持つあの美しさはどのようにして表現すべきなのか?絵画以外の表現手段に可能なのか?質的な違いとして諦念すべきなのか?あるいは量的差異として克服すべきなのか?あるいは止揚により新たな美が産出されるのだろうか。他の芸術形式との相関性について暫し考えさせられるひとときでもあった。