●癒しの風景


久々にリヒャルト・シュトラウスのオペラを開拓しようと言う意欲がわいてきた。これは本当に奇跡的なことだ。そんなことこの半年間思いもつかなかったから。ちょっとは体調が良くなってきたのかもしれない。
まずは一週間ぐらいこのCDをきき倒そうと思っている。その後、昨年ぐらいにBSで放映されたビデオを見て、楽しむことができるかどうか、というところである。話の中身も、劇の中で劇中劇が演じられるという、入れ子方式の複雑なものだから、何度も聞かないとわからなさそうだなあ、と思う。
あらすじを説明するのも難しい。
ある金持ちの家でオペラが上演されることになっているのだが、その後でコメディアンによるコメディ劇が演じられるというので、音楽監督が執事に対して怒っている。オペラを侮辱するな、見ないな感じで。ところが、9時から始まる花火大会に間に合わせるために、執事はオペラとコメディ劇を一緒に演じるように命じる。作曲家はちょっと落ち込むが、コメディアン一座の女優が気に入ったのでまあいいか、という感じ。
いよいよ、オペラ+劇の開始。アリアドネは絶海の孤島に見捨てられ絶望して死を待ち望んでいる。コメディアン一座はアリアドネをどうにかして慰めようとするけれど、結局自分たちの楽しみに興ずるのみ。そこに、バッカスが登場する。バッカスを死の使いと勘違いしたアリアドネがバッカスに身を任せると、愛が生まれ、バッカス自身も愛の神として完成する。
あらずじだけだと、なんだなかな、という感じだけど、オペラにはこういうのはありがち。要はアリアドネを慰める女優(チェルビネッタ)のコロラトゥーラの美しさを満喫したり、アリアドネの独白のアリアの美しさに感嘆したり、アリアドネとバッカスの出会いから愛の完成までのアウフヘーベンを楽しんだり、あるいはウィナーワルツ風の舞曲を楽しんだり、とか、そういうところがこのオペラのすごいところなのである。
それから、執事は歌手ではなく演劇俳優が演じることになっている。従って、歌を歌わずに、台詞をしゃべるのである。それがうつくしいドイツ語で何とも言えず幸せな気分になれる。先日のライヴで、オペラで台詞をしゃべることはあるのか、という話になったけれど、そういえば、このオペラは台詞満載であった。彼だけ台詞をしゃべるというのは、音楽と世俗との乖離を表しているものでありが、なかなか凝った作りでおもしろい。
シュトラウスには「影のない女」という世俗と彼岸の対立と結合をテーマにしたオペラもあるが、「ナクソス島のアリアドネ」にも似たところがあるなあ、と思う。作曲していた時期も重なっていたらしいし、執事←→音楽監督の対立軸や、オペラ←→コメディの対立軸などがそれを補強している
もっとも、僕としては、オペラが終わった後にもう一度執事や作曲家たちに登場して欲しいなあ、とも思うのだけれど。オペラが演じられて終わってしまうので、ちょっと締まりがない気がするなあ、と。天才ホフマンスタールとリヒャルト・シュトラウスの作品なのでそれなりの意図があるはずだが、これは今後の研究テーマ。二人の往復書簡はちゃんと残っているから、どこかに何かが書いているはずだと思う。
音源の演奏は、シノポリ指揮のドレスデン州立歌劇場。シノポリといえば、オペラの指揮中に倒れて若くして(50代後半)亡くなってしまったイタリアの天才指揮者。結構好きな指揮者だったのできわめて残念。精神医学を学び、料理を作り、俳句も作り、最近ではバビロニア考古学でも博士号を取ったというマルチな天才なのである。このCDが生前最後の録音なのだそうだ。
参考書はたとえばこちら。
「R.シュトラウス 作曲家別名曲解説ライブラリー」音楽之友社
この参考書はおもしろくて、リヒャルト・シュトラウスの解説書なのに、
今や彼の作品そのものは「既成事実」となって、世界の演奏会場や劇場で確固たる位置を占めているのである。しかし、彼の存在そのものがその作品を通してわれわれの内部に占める位置と大きさは、まだ揺れ動いている。19世紀前半のヨーロッパ音楽界に君臨しながらも、その後100年ほどの間に完全に忘却の彼方に追いやられたマイヤベーア(中略)の芸術と同じ運命をたどるか、それともこれから21世紀前半にかけて「シュトラウス・ルネッサンス」をこの世が体験するか、それは神のみぞ知ると言うほかない。『R.シュトラウス 作曲家別名曲解説ライブラリー』音楽之友社 1993 11ページ (この部分は原田茂生氏が執筆)
といような、シュトラウスファンの不安を喚起するようなことが書いてあるのである。もっとも、マイヤベーアの後には、一般の人々に向けてオペラが多数作られたのに対して、シュトラウスの後には、一般の人々に向けたオペラはほとんど作られていない、という事情の違いもあるし、近年のオペラ上演が演出の斬新さや現代性などに傾いている、という状況があるから、歴史が繰り返すと言えるかどうかは微妙であると思うのであるが。
今回も少し長くなってしまったが、この辺で。
昨日「オペラのきき方」などということを書いてしまったが、それを読み返してみて、常々考えていることが頭の中に浮上してきた。昨日の「オペラのきき方」は、旋律至上主義的だなあ、と思ったから。
僕は歌詞を聞かずに音を聞いていることが多いなあ、ということ。これはオペラに限らず、歌謡曲、ポップスなど含めてジャンルを問わずにそうなのである。逆に歌詞が入っているのが窮屈に思うこともしばしばで、だからジャズ・フュージョンにおいては、インストの曲を好むのだなあ、とも思う訳である。
紅白歌合戦で、一年に一度J-POPをきくのだけれど、そのときの僕の中での曲の良し悪しの基準は絶対に歌詞ではない。アレンジとか、リズム、ベースライン、コード進行を聞いている。カラオケにいっても同じで、特に、他の人が歌っているときはその傾向が顕著。「この曲、歌詞がいいんですよね〜」とか、よくラジオのDJが言うけれど、そういうのには今ひとつ共感できない。
(自分が歌う歌は違ったりするところが自分勝手なんだけど。ちなみに、歌う曲はやしきたかじん。洋楽もよく歌うけれど、歌詞の意味はわからずとも良くて、曲が良いから歌っているだけ)
ということは、僕は歌声さえも楽曲における楽器の一つとして処理している可能性が高い。オペラの場合もそうで、イタリア語の発音がよい、とか、ドイツ語の発音がよい、とかはよくわからないけれど、声の良さ(特に欧米人の声の倍音の美しさなど)には激しく共感できる。もっと極端に言えば、あらすじさえもわからずともよくて、音楽さえよければそれでよい、とまで押し進めてしまうこともできる気がする(そこまではさすがに行くことは少ないけれど)。これは、おそらく、ドイツの絶対音楽をきき過ぎたからかもしれない。
昔から、「このフレーズはカッコウの鳴き声で、このフレーズは小川のせせらぎ」みたいな、小学校の教科書に書いてあるようなことはあまり好きではなかった。曲として統一がとれていて、全体が良ければ良いじゃん、みたいな、そういうことをずっと考えていたなあ。
なんだかとりとめなくなってきたけれど、要は、曲が良ければそれでいいなあ、ということが言いたいのである、と帰結させてしまおう。
本日辻邦生さんの命日なれど、通院等で忙しい一日を送ってしまった。これで6回目の命日なり。あの日のように暑い一日。知らせを電話で(今の)家人から聞いて絶句して数分間言葉が出なかったことを思い出す。オペラや音楽もいいのだが、そろそろ辻邦生さんの本をもう一度開く必要がありそうだ。
オペラを聴き始めた頃から、いろいろと試行錯誤を繰り返していたけれど、今は大体こんな感じできいている。異論反論もあると思うけれど、自分の整理のためにも一応。というのも、先日のライブで後輩と話をしていて、頭の中で整理が始まったという感じ。
リヒャルト・シュトラウスのオペラなんて、難しいから一度きいただけでは理解できないよ、と音楽家の友人に悩みながら話したら、「当たり前だよ、一回きいてわかるわけないじゃん」と言われて安心した。音楽家でもそうであるならば、素人であればなおさら。譜面もさらえないのだから仕方がない。ベンヤミンではないが、繰り返しきくことが重要だなあ、と、つくづく思う。
僕は、ゼンハイザーのヘッドフォンを愛用している。独特の高音域の伸びがとても好きなのである。かつて紹介したゼンハイザーHD200をとても気に入っている。クローズタイプなので、音量を気にせず電車に乗れるし、会社の昼休みにもこれを着けていれば自分の世界に閉じこもることができるからである。しかし、如何せん目立つ代物であることには代わりはない。ヘリコプターの防音ヘッドセットと見まがうほどの強烈な存在感は、会社においては僕のアイデンティティとして確立されてしまっているのである。従って、隠密行動(?)を取らねばならない時や、そのあまりにユーモラスな存在感が故にスーツなどを着てピシッと出かける時などには使うことができないのである。
そこで、最近では、同じくゼンハイザーのPMX60というヘッドフォンを使用することが多い。これは「バックアームモデル」と呼ばれているそうだが、要は頭の後ろにアームが来るタイプ。このタイプのヘッドフォンの場合、たとえば某S○NYの製品だと、折りたたむことができるのだが、無骨なドイツ製であるPMX60は折りたたむことができない。パッケージを開封して、最初にショックを受けたのが、この「折りたたむことができない」ということだった。
だが、音質は見事。多少音漏れはするので、音量には気を遣わなければならないが、ゼンハイザーサウンドはここにもちゃんと生きている。伸びやかな高音は、ボサノヴァを聴いたり、クラシックを聴いたりするのに良い。音に疲れないのである。折りたためないといえば折りたためないが、意外とかさばらないのでカバンに気軽に入れることもできたりする。Ipodとの相性もばっちり。折りたためない、という欠点を除けば、ベストなヘッドフォンの一つにはいるだろう。
マイケル・ブレッカーが病気になったということもあって、マイケルの昔のアルバムを聴いている。Now you see itというアルバム。もっとも電化されたマイケルのソロ・アルバムである。先日ミュージック・バトンにも書いたのだけれど、ジム・ベアードがキーボディスト・プロデューサとして入っているのがミソである。それから、ギターのジョン・ヘリントンが良い味を出してくれている。特にOde to do da dayのスライドギター(っていうんでしたっけ、忘れてしまった)が泣ける。
昔、某ジャズ喫茶でこのアルバムを先輩二人と一緒に聴いたら「これ、ほとんどウェザーリポートじゃん」と言われたのだけれど、イエロー・ジャケットほどにはウェザーではないと僕は思う。
前々から思っていたのだが、マイケル・ブレッカーのサクソフォーンの音程というのは、微妙にピッチがうわずり気味なのである。それが一つの価値を作り出して感興を生み出しているのだから、非難しているわけではない。注意して聴かないとわからないレベルのピッチの差異なのである。最近この音程もフレージングや音色と並んで、マイケル・ブレッカーの一つのアイデンティティのひとつのような気がしてきた。