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2006年04月22日

●藤田嗣治展

藤田嗣治展に赴く。新聞販売店の招待券が当たったのである。出かけてみると長蛇の列で入場まで40〜50分もかかる有り様。たしかにテレビでもかなり取り上げれていたし、天気の良い土曜日とあれば致し方ない。

藤田嗣治の東京美術学校の卒業制作である自画像から、晩年フランスに帰化した後の作品までが時代順に網羅的に展示されていた。残念ながら僕が昔感銘を受けた京都国立近代美術館所蔵の作品や、国立西洋美術館所蔵作品は展示されていなかった。

しかし普段はみることのできないであるう戦争画の大作が4枚展示されて、戦闘の阿鼻叫喚を伝えるにこれ以上のものはないだろう、という迫力と感興を感じる。いずれもオレンジ色を基調としていて、血や炎を連想させる。これがあの乳白色の美人がを描いた同じ画家のてによるものとは、そうと言われなければ分からないだろう。戦争画は戦時中に軍部によってプロパガンダとして使用されたとして米国に一旦接収されたのだが、現在は無期限貸与という形で国立近代美術館が管理していると言うことだそうだ。

それにしても、藤田嗣治の画風は時代を追うに従ってその作風を変えていくのがよくわかる。パリ留学直後モディリアーニばりの絵を描いているのだが、そこから脱却して、いわゆる「乳白色」の世界を徐々に洗練させていく。中には日本画の影響を強く受けた作品も見受けられる(背景に金箔を施していて、まるで屏風絵の様に見えるのだ)。パリを離れ日本へ戻ると、また画風は代わり色彩が豊かになる。戦争画の時代は特筆すべきものであることは先に書いたとおり。戦後は、再び「乳白色」が戻ってくるのだが、よりソフィスティケイトされていく。もちろん一つの展覧会を一望しただけで藤田嗣治の全貌を見ることなどできるわけはないのだが、少なくとも藤田嗣治が気づいた世界が「美しいもの」であることだけは確かであると思うのであった。

それにしても、久々の美術館で、本当に刺激を受けた。絵画の持つあの美しさはどのようにして表現すべきなのか?絵画以外の表現手段に可能なのか?質的な違いとして諦念すべきなのか?あるいは量的差異として克服すべきなのか?あるいは止揚により新たな美が産出されるのだろうか。他の芸術形式との相関性について暫し考えさせられるひとときでもあった。

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