●「24の誰も寝てはならぬ」
先日タワーレコードでおもしろいCDを見つけてしまった。「24の誰も寝てはならぬ」である。まさに、「トゥーランドット」の最大の聴かせ場所といっても良い「誰も寝てはならぬ」、トリノオリンピックの開会式でパヴァロッティが歌った「誰も寝てはならぬ」を24の違う歌手で聴くことができる。まさに「誰も寝てはならぬ」づくし。パッと聴いた感触ではベルゴンツィの「誰も寝てはならぬ」がぬきんでいる感じ。まあ、曲の良さは今更言うまでもない。このCDを子守歌にしながら寝てみたいものだ。
先日タワーレコードでおもしろいCDを見つけてしまった。「24の誰も寝てはならぬ」である。まさに、「トゥーランドット」の最大の聴かせ場所といっても良い「誰も寝てはならぬ」、トリノオリンピックの開会式でパヴァロッティが歌った「誰も寝てはならぬ」を24の違う歌手で聴くことができる。まさに「誰も寝てはならぬ」づくし。パッと聴いた感触ではベルゴンツィの「誰も寝てはならぬ」がぬきんでいる感じ。まあ、曲の良さは今更言うまでもない。このCDを子守歌にしながら寝てみたいものだ。
今朝は、カミさんの奇声で目を覚ます。何事かと思い、居間に行くと、どうやら荒川選手が金メダルを取ったとのこと。
これで、トリノオリンピック公式ページにも日本のメダルが登場してくれた。よかったよかった。あの大英帝国より上にランクされているとはね。こういうときだけ、国粋主義的になるのはなぜだろうか?まあ、良いことにしよう。
ちなみに、荒川選手の選曲は絶妙だった。彼女自身も「運命を感じましたね」と言っていたが、開会式でパヴァロッティが歌った「誰も寝てはならぬ」を含めてプッチーニの「トゥーランドット」から抜粋した曲を上手く使って演技していた。彼女自身はトゥーランドットの気持ちで演技していたのか、リューの気持ちで演技していたのか?
いずれにせよ、「誰も寝てはならぬ」はやはり名曲である。荒川選手演技もさることながら音楽とのコラボレーションが実に感動的だったのだ。
先日に続きショスタコーヴィチを、ロジェストヴェンスキー指揮、ソヴィエト文化省交響楽団の演奏で聴いてみる。今回は交響曲第7番と第8番のカップリングCDである。
交響曲第7番は、レニングラード攻防戦をテーマにかかれた交響曲で、有名な旋律は、20年ほど前に某栄養ドリンクのCMに使われたので、聴けば、ああ、これかあ、と思うはずである。ショスタコーヴィチはドイツ軍包囲下のレニングラードで交響曲を仕上げると、スコアはマイクロフィルム化されてアメリカに空輸された。この交響曲は闘うソヴィエトを支援するためのアメリカ国民へ向けたプロパガンダに使用されたのである。初演はあのトスカニーニなのだが、初録音はストコフスキーである。どちらが初演を振るかで、トスカニーニとストコフスキーがもめたそうなのだが、結局初演はトスカニーニ、初録音はストコフスキーということで折り合いをつけたらしい。
交響曲第8番はスターリングラード攻防戦をテーマにかかれた交響曲。第3楽章で現れるトランペットのフレーズが実に勇壮で美しい。ロシアの交響楽団だと、このトランペットのフレーズをヴィブラート画けまくりで吹くのが特徴である。
そういえば、高校入試の時、朝6時に起きたのだが、そのときの目覚まし音楽が、ショスタコーヴィチの交響曲第7番だったなあ、と思い出すこと暫し。
いやあ、J-POPをここで紹介するとは想わなかった。しかしこのアルバムは実に秀逸なのである。僕はヴォーカルのついた曲を聴くときその歌詞を全く認識していない。ヴォーカルを一つの楽器としてその音質と旋律を楽しんでいる。これはクラシックであろうが無かろうが同じであるらしい。だから、筋書きや歌詞のわからないオペラを聴いても楽しい訳である。
それで、この一青窈のアルバムもやはりおなじで、歌詞はほとんど認識せずに音楽全体として認識しているようだ。その上で実に秀逸なのである。もちろん歌詞がすばらしいということはよくテレビなどで紹介されていることなのだろうが、僕にとっては、それ以上に、音楽全体のプロデュースであったり、一青窈のヴォーカルの音質や旋律に感興を覚えているらしい。
ということで、普段日本のPOPSを全く聴かない僕にしては珍しく、実にお薦めのアルバムなのである。
ふとテレビを回していたら、なんと聞き覚えのある「ナクソス島のアリアドネ」をNHK教育で放送していた。あとからわかったのだが、これは、2001年のザルツブルク音楽祭の映像のようだ。指揮はクリストフ・フォン・ドフォナーニ、演奏はウィーンフィル。演奏的にはまあよいとして、本当にシュトラウスは良い音楽を書くものだ、とつくづく思う。演出はなかなかおもしろくて、ナクソス島が70年代のドイツの酒場かカフェのような設定になっているドイツっぽいモダンなもの。ツェルビネッタ役のソプラノ(ナタリー・デッセイ?)のコロラトゥーラのできばえがすばらしかった。
あっちに住むとこういう演奏を毎晩聴けるのかぁ、と思うとため息が出ることしきり。
久しぶりにショスタコーヴィチが聴きたくなって、CDを引っ張り出してきた。今は絶版になってしまったメロディアレーベル(旧ソ連唯一のレコード会社)で録音された、交響曲第10番と第11番のカップリングCDである。指揮はゲンナジー・ロジェストヴェンスキー、演奏はソビエト文化省交響楽団(USSR Ministry of Cultre Symphone Orchestra)である。録音は1983年から1987年にかけてで、旧ソヴィエト体制下での録音である。
僕が、交響曲第10番の演奏を初めて聴いたのは中学校2年生頃の頃だったと思う。SONYのHF-60というTYPEIのカセットテープの両面に録音して、S/N比の高い音のカーテンの奥をのぞくようにして演奏に耳を傾けたものである。録音場所はモスクワで、場所はかかかれていないから不明だが、録音スタジオの高いリバーヴが効果的に聞こえている。作曲は1953年で戦後8年目で、スターリン死去の年である。この曲は、交響曲第9番が当局より批判されたものに答えたものであったが、それでもやはり暗い雰囲気などが当局批判の対象になった。有名なDSCH音型が登場する曲でもある.DSCHとは、ドミトリー・ショスタコーヴィチの頭文字を撮った音型でバッハのBACH音型とにたようなもので、これでもか、これでもか、というぐらい、レ、嬰ミ、ド、シの音型が現れる。
個人的には第二楽章の疾走感がたまらないのだが、それ以外の楽章の沈鬱な表情も見逃せない。おそらくはショスタコーヴィチの数ある交響曲の中でも傑作と呼んでも差し支えはないであろう(あるいは、ショスタコーヴィチの交響曲に駄作はあるのだろうか?という疑問にも苛まれるのだが…)。
カップリングの交響曲第11番は「1905年」の血の日曜日事件を題材にした交響曲でこちらも傑作。絵画を見るかのような描写性とともに、解釈を許す抱擁性を持つ曲。
いずれにせよショスタコーヴィチを聴きたくなるような寒い朝に、このCDを聴くことができて小さな幸せを感じることができた。