●アニータ・ブルックナー「秋のホテル」
この本を手に取ったのは、あまり深い訳があるわけでもなく、作曲家のブルックナーと同じ名字だな、ぐらいなものでした。半分ジャケット買いのようなノリでした。
読み始めた段階で、自分の嗅覚に敬意を表することになりました。静謐で内省的な文体。主人公のイーディアス(彼女もやはり小説家なのですが)の意識や感覚がとてもくっきりと描かれていますし、描写も抑制をきかせながらも、実に的確でした。特にお金持ちの生態を描くことにかけては、鋭敏な感覚を持っているようで、彼女たちの姿が目の前に浮かぶようです。自信と美しさに満ちあふれ、ある種傲慢にも見える彼女たちに、イーディアスは憧れを感じます。そして、一度はその世界に足を踏み入れようとする決断をするのですが、最後はどうなるのでしょう??
ウサギとカメの寓話が語るように実世界ではカメが勝つことなどなく、やはりウサギが勝つことになるのだ、という妙な悟りがリアルでした。われわれはカメが美徳であるかのような教育を受けてきたわけですが、必ずしもそうではないのではないか、という、ある種自嘲的な悟りです。イーディアスは、それでもやはり自分がカメの世界の住人であることを悟りますし、自分が書く小説の読者もやはりカメの世界であると、悟ってしまうわけです。悟りといっても、そんなに深刻なものではありません。ほんのちょっとした思いつきレベルなのですが、そのくだりがとても印象的でした。
自分らしさ、とか、自分探し、などと言いますが、それはそんなにきれいなものではありません。ただ、最後は、登場するお金持ち女性のように、ある種脳天気に生きているほうが勝ちのではないか、ウサギはやはり速かった、ということになるのではないか。孤独感もあるでしょうが、それ以上にここには諦念があるように思えます。それも前向きな諦念です。