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2003年10月20日

●プルースト「ソドムとゴモラ」

cover

ゲルマント大公家でのパーティーの描写。「ゲルマントの方」で見慣れた上流階級のパーティの描写が続く。本当に興味深いのだ。貴族が語り手に示す態度、もちろんそれはきわめて親切で慇懃なものであるのだが…

貴族達の親切さをあらわす言葉、口にされたりされなかったりする言葉の、正確な価値が分かりはじめていたのである。その親切さは、それが向けられる人たちの劣等感を慰めることに喜びを見出すものであるが、しかしその劣等性を解消するところまではいかない。なぜなら、そうなるともはや親切さは存在理由がなくなるからである。
プルースト著 鈴木道彦訳 「ソドムとゴモラ I」 1998年 集英社 119ページ

プルーストは、こうした言葉をどんな気持ちで書いたんだろうか。貴族達と付き合いながら、そのサロンで談笑しながらも、鷹のような鋭い目で、まるでテーブルの上を飛翔しながらその会話をメタレベルで眺め続けたのだろう。しかし、そうした鋭さは文章の中にあまり感じられず、幾ばくかのシニカルな雰囲気はあるものの、なにか、いたわりの感情であったり、あるいは同情であったり、批判めいたものを感じさせない懐の深さがある。むしろ、まるで檻の中の猛獣を眺めやるようなまなざしであるかのように思える。

我々の世界で言えば、どういうところに見て取れるだろう?直接的に述べるのは難しいが、上下関係を含んだあらゆるコミュニティで、多かれ少なかれこういう場面に接する。上流階級という特殊な世界を描いてはいるが、普遍的なものをそこに見て取ることが出来る。特殊と普遍のバランス?とでもいえようか…。だから今でもこの小説を読むことが出来るのだ。

この懐の深さは、貴族達の姿に自分を重ねることが出来るからだろう。貴族への徹底的な批判は自己批判となるから。なぜなら、貴族達の特殊は自分を含む普遍に繋がるのだから。

どうやら風邪気味で、早めに会社を出る。電車の中でも悪寒を感じていたし、少々疲れていたこともあったので、眠り続ける。駅前の喫茶店で、再びプルーストを読み始める。

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